建設の歴史探訪「江戸のまちづくり」江戸の職人(45)

 今回も、江戸の職人について考えます。江戸の職人の稼ぎは、「居職」と「出職」の職人に分けられます。まず、「居職」の職人は、自分で「もの」をつくり、自分で値を付けて売る場合もありましたが、殆どは、大店(おおだな)から言われて、注文品を自宅でつくっていました。このような職人は、具体的な収入を知りませんでした。一方、「出職」の職人は、殆どが、「手間職」、つまり、一日いくらという「手間賃」を貰い、雇われていました。当初、江戸では、江戸城の築城、修築、まちづくりと、仕事量も多く、大量の職人が職を求めて来ていました。

 その後、1657年(明暦3年)の明暦の大火を境に、「手間賃」が高騰していったと言います。その理由は、この大火で、江戸城本丸をはじめ、江戸市街地の6割近くを焼き尽くしてしまったからでした。その始末後、市中の各地で、復旧工事が活発に行われていったため、職人の手が足りず、「手間賃」を上げて、職人を集めざるを得なかったのでした。そこで、幕府は、大工、屋根葺、左官、石切、畳刺の職人は、一人一日飯料込みで、銀三匁、木挽は、銀二匁を上限とする「公定賃金」を定めたと言います。最も、当時、「手間賃」は、注文主と仕事を請負う職人との話合いで決められるのが一般的でした。しかし、あまりにも「手間賃」が高騰したため、幕府は、上限を定めた「町触」を出し、抑制しようとしました。

 余談ですが、江戸のまちは、火事が多く、消火の後、焼け跡の後始末をするのが「鳶」で、跡地に家を建てるのが「大工」、壁塗りが「左官」で、引っ張りだこでした。それだけに、鳶、大工、左官の職人は、稼ぎが良く、女性の憧れの的だったと言います。

 次回も、職人の暮らしぶりを考えます。

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