建設の歴史探訪「江戸のまちづくり」神社・仏閣(39)

 今回は、江戸のまちづくりにおいて、神社・仏閣について考えていきます。江戸幕府は、国家政策として、各大名に、それぞれの地域に寺を建立させ、檀家と寺の関係を強固にしました。全ての住民が、どこかの寺の檀家となり、基本的に仏教徒になりました。つまり、幕府は、寺を建立することで、仏教国家の組織化を推進していきました。そのため、幕府が、国家政策として建立した官社は、より仏教色の強い神社となり、「神仏習合」が、益々強くなっていきました。

 一方、官社とは異なる、鎮守の森で祀られる氏神様は、大衆信仰として、地域に根ざし、閉鎖的な信仰であり、四季折々の中で、その時の恵みを祈り、収穫を感謝していきました。例えば、伊勢講と称し、住民が代参者を選び、伊勢神宮に参拝し、森の石松で有名な金毘羅山参り等、神社は、大衆信仰がより強いところとして、参拝されていきました。つまり、神道は、日本列島に土着だった民族の自然崇拝が源流で、神道の元の姿は、岩や海、大木、大岩など、様々なところに宿る神様でした。

 さらに、仏教は、インド発祥で、中国や朝鮮半島を経由し、やってきた宗教でした。日本の仏教は、大乗仏教というものの一つであると言います。そもそも、神仏習合という土着の神道と外来の仏教が融合することができたのは、次の3つです。一つ目は、仏教が、他の宗教の神様や信仰と融合する柔軟性を持っていたからです。二つ目は、民衆の願いを叶える救済や民衆を救う救済という大乗仏教の性格は、日本の神様の信仰と合致したためです。三つ目は、先進的な文明を学んできた仏教の思想や文化に、日本の神様は、抵抗する力がなかったからでした。

 ところが、江戸時代は、神仏習合の中、仏教が主で、神道が従でしたが、徐々に、神道の優位を説く思想が隆盛していきました。1868年(慶応4年、明治元年)「神仏判然令」が発令されました。

 次回は、幕府ゆかりの寺社について考えます。

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