建設の歴史探訪「江戸のまちづくり」橋の整備(35)

 今回は、江戸のまちづくりにおける橋の整備について考えます。徳川家康は、1594年(文禄3年)、江戸幕府が開かれていないときに、江戸で初めて、大川(隅田川)に架けた橋が、「千住大橋」です。そこには、渡裸川(戸田川)の渡しと呼ばれる渡船場があり、佐倉街道、甲州街道、水戸街道などの街道筋でした。架橋は、関東代官頭の伊奈忠次が行いました。橋長66間(120m)、幅4間(7.2m)の木造の橋で、難工事だったと言われています。熊野権現に祈願し、ようやく完成したと言います。

 その後、幕府は、江戸の防備上、この大川には、千住大橋以外の架橋を、認めなかったと言います。家康は、街道の川渡しにしても、主要な街道に橋を架け、人々の往来や荷物や資材の流通が楽になることよりも、江戸へ攻め込む諸大名たちを意識してことが分かります。後に、1657年(明暦3年)明暦の大火後、交通上、安全上のため、両国橋等も架けられました。この時の将軍は、第4代将軍家綱でした。明暦の大火で、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、長屋の大半を焼失したことで、橋の重要性を思い知ることになり、架橋を推進していきました。この大火で焼失した江戸城天守は、その後、まちの復興を優先し、再建されることはありませんでした。又、以後、天守の再建計画はありましたが、「城の守りに、天守は必要ではない」という意見により、実現しなかったと言います。

 千住大橋は、幾度も改架、改修が行われました。1647年(天保4年)を皮切りに、1767年(明和4年)まで、計6回に及んだと言います。尚、明和4年の架け替えの際に、ほぼ、現在の位置にかけ替えられたようです。最初の架橋から、1885年(明治18年)の台風による洪水まで、流出が一度もなく、江戸時代の300年近くを生き抜いた不落の伝説を持つ名橋と言われています。

 次回は、江戸の庶民の住まいである「町人長屋」について考えます。

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