建設の歴史探訪「江戸のまちづくり」灌漑用水(32)

 今回も、引き続き灌漑用水について考えます。このころ、幕府は、各大名による土地支配体制を確立し、年貢米を持って各国の財政的基盤としました。このことで、各国の米の増産政策を加速していきました。今まで、戦に明け暮れていた時代から、大規模な新田開発へ向かうこととなりました。それが、灌漑を奨励することとなりましたが、2つの課題が潜んでいました。一つは、洪水などの水害を防ぐための築堤、河川整備でした。もう一つは、水源確保のためのため池などの確保や水源から目的地である農地までの用水路の整備、農地の整備でした。

 まず、広大な江戸城の周辺は、江戸城の築城や掘割が完成するにつれ、多くの河川が江戸へ流入していました。雨期になると、至る所で、洪水が発生し、農地を破壊していきました。特に、利根川では、この洪水の氾濫を防ぐための対応が、最優先課題でした。その方法は、利根川の流路変更でした。1660年(万治3年)に幕府が、天領開発の一環として、関東郡代の伊奈忠克に開発させました(葛西用水路)。伊奈忠克は、1653年(承応2年)世襲により、関東郡代職を受け継ぎ、1654年(承応3年)父忠治の事業を継承し、江戸市民の飲料水となる玉川上水を完成させていきました。

 その後、利根川から引いた水で灌漑用水路をつくり、新田開発を行っていきました。この新田開発は、延長や取水口の遷移を行い、完成には、100年を要したと言います。伊奈忠克をはじめとする伊奈一族の河川改修技術は、「関東流」と呼ばれています。この河川改修技術は、洪水を、自然堤防や不連続堤防で防ぎ、大洪水は遊水地に滞留させ、洪水に含まれる肥沃な土を活用するものでした。治水と新田開発を両立させる素晴らしい技術でした。

 次回は、旅人の川渡しについて考えていきます。

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