建設の歴史探訪「まちづくり」天下普請(31)

 今回は、江戸のまちづくりにおける「天下普請」事業について考えます。全国の大名には、「御手伝普請」が課されていき、特に、外様大名には、所領石高に応じて、所領千石につき、人夫10人の労役供出が命じられました。これにより、広大な江戸の市街地を造成することが可能になりました。

 しかし、この江戸のまちづくりも、根本的に改造される出来事が起こりました。それが、「明暦の大火」1657年(明暦3年)でした。この大火により、江戸のまち約60%が消失するなど、壊滅状態になり、江戸のまちを構造的に見直すことを余儀なくされた大火でした。

 例えば、「道路の拡幅」「防火の土手」「架橋」「埋め立て」「日除地」「大名・旗本の屋敷を郊外へ移転」「寺社も郊外へ移転」など、防災を重視した江戸のまちづくりが再整備されることになりました。この結果、江戸のまちは、18世紀以後、100万都市の石杖となりました。

 江戸は、開府以来、爆発的に人口が増えていきました。江戸のまちは、もともと海岸に近い湿地を埋め立てた造成地が多いため、井戸を掘っても、塩分の強い水ができるなど、飲料水には適さない水でした。そこで、1590年(天正18年)、井之頭池を源泉とする日本最初の上水である神田上水を開設しました。家康の命を受けた大久保藤五郎により、開かれた最初の上水は、小石川上水と呼び、後に、拡張したのが、神田上水となりました。大久保藤五郎は、開削後、家康より、「主水」の名と、「山越」と称される名馬を賜ったと言います。

 次回は、灌漑用水の整備について考えていきます。

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