建設の歴史探訪「まちづくり」掘割(29)

 今回も引き続き、江戸城のまちづくりにおける掘割について考えます。1590年(天正18年)に開削した「道三堀」に続き、1606年(慶長11年)天下普請による江戸城の築城の際に、日比谷入江埋め立てと並行して、掘割が進められていきました。川の西側の譜代大名の上屋敷が軒を連ねる武家地、東側は町人地として計画され、川にはいくつかの門が設けられました。これが、まちづくりをイメージした掘割「外濠」でした。

 この外濠の目的は、2つありました。一つは、江戸城の防衛です。もう一つは、排水路や運河の役割を担うことでした。城側城郭には、石垣が組まれていましたが、東側の荷揚場は、城辺河岸と呼ばれていました。江戸湊に続く八重洲、日本橋、京橋一帯は、商工業者の集住地域で、取り扱う原材料や加工された製品を輸送する水路として利用されていました。この外濠も、1950年(昭和25年)までに大部分が埋められています。そして、1959年(昭和34年)には、呉服橋付近を若干、水路として残し、外濠は消滅しています。

 さらに、第二次の天下普請が、1612年(慶長17年)より開始され、1615年(慶長20年、元和元年)まで続きました。以前の外濠との間に、10本の「船入堀」が掘られました。この「船入堀」の目的は、江戸城の築城の際の資材(主に石垣用の石材)を陸揚げすることでした。江戸城の築城が完成すると、この「船入堀」も埋め立てられました。

 次回も、江戸城のまちづくりの掘割について考えます。

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