建設の歴史探訪「まちづくり」江戸城の築城(27)

 今回は、前回に引き続き江戸城の築城について考えます。1603年(慶長8年)江戸城の拡張に着手しました。神田山を崩して、江戸城の南に広がる日比谷入江を完全に埋め立てたとしています。神田山は、高台である駿河台を言います。この時に、吉祥寺を水源とする神田川は、飯田橋付近から隅田川まで、分流として水路を確保したとされています。

1606年(慶長11年)には、諸大名から石材を運送させ、江戸城の増築に取り掛かりました。外郭石壁・石垣・本丸・城廻の普請、天守台の築造などでした。翌1707年(慶長12年)は、諸大名に命じて、天守台並びに石塁の修築に掛るなど、作事奉行の下に、「大名御手伝普請」がおこなわれていきました。

1614年(慶長19年)、石壁の修築を行う一方、家康は、大坂の陣触れを出し、江戸留守居役を除く諸大名は、この江戸城からの参加となり、諸大名は著しく疲弊していました。このため、翌年1615年(慶長20年)大阪夏の陣終結後、家康は、3年間天下普請を止めるように指示をしたと言います。家康死後も、江戸城築城は続き、2代将軍秀忠、3代将軍家光まで、1636年(寛永13年)に完成しました。実に、33年を要した天下普請により、江戸城が完成するなど、諸大名は、多くの手間と財を浪費させられました。まさに、家康の術中にはまってしまったと言えます。

 次回は、掘割について考えます。

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