建設の歴史探訪「まちづくり」江戸城の築城(25)

 今回も引き続き、江戸城の築城について考えます。家康が入城した江戸城下は、荒廃し、荒んだ領地でした。この時、家臣から、これから家康の居城となる荒れ果てた古城の修繕を勧められたが、家康が決断したことは、家臣たちの住まい確保を優先させたことでした。

 しかし、江戸城のまわりは、葦の茂る水浸しの土地であり、軟弱地盤が多いため、比較的地盤がしっかりした場所を決め、そこを家臣たちの居住としました。家康は、1603年(慶長8年)に、江戸幕府を開府した後も、豊臣秀頼を主君として豊臣政権を口にする一部の豊臣家の家臣(毛利輝元や本多正信ら)に手を焼いていました。これら豊臣家の家臣たちは、大阪城に立てこもり抵抗しましたが、1615年(慶長20年)、大坂の陣による家康の勝利により、名実ともに徳川の時代となりました。開府後、家康は、天下統一まで12年も要したわけです。その間も、各大名を使い、江戸城の大規模普請を幾度となく重ねていきました。

 そして、江戸のまちづくりが本格的に進められていきました。そのまちづくりのブレーンとして活躍したのが、天台宗の僧であった天海でした。天海は、北条攻めの際にも、家康の陣幕にいて、参謀として重要な人物となっていました。

 次回も引き続き、まちづくりについて考えます。

最新記事

アーカイブ