建設の歴史探訪「航路の整備」(20)

 今回は、航路の整備において、江戸港、大阪港について考えます。まず、江戸港は、江戸湊と呼び、江戸の住民のお腹を満たす一大寄港地として整備していきました。江戸湊は、多摩川、隅田川、江戸川、養老川、小櫃川、小糸川など多くの川が流れ込み、三角州を形成していました。「明暦の大火」後、新しく江戸湊も生まれ変わり、築地から高輪に至る外港部と隅田川沿いの内港部に分けて、整備されていきました。

 同様に、大阪港は、難波津と呼び、北前船の一大寄港地であり、多くの船が利用する港でした。難波津も大和川、淀川などの川が流れ込み、三角州を形成していました。そのため、江戸湊も難波津も河川から運んでくる土砂により、湾内に堆積するなど、時間の経過とともに、船の移動に支障をきたすようになり、浚渫の必要性がありました。

 帆船の積み荷の移送量は、殆どが「西回り航路」でした。それは、偏西風の影響で「西回り航路」は、流されても岸に着きますが、「東廻り航路」は、一旦沖に流されると、日本から離れていくばかりで、戻ってこられないという非常に危険を伴った航路でした。「西回り航路」を行き交う北前船は、元々、北陸の加賀藩三代藩主、前田利常公により、1639年(寛永16年)加賀藩の蔵米を大阪に輸送するための船でした。

 次回は、近江商人の商いについて考えます。

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