建設産業の歴史を紐解く旅(5)

今回も、前回に引き続き江戸のまちづくりについて話しを進めます。前回までは、江戸城が置かれた本丸台地を囲むように7つの台地が、陰陽道では地の気が集まり、栄える場所とされたと言うところまででした。

このような説に導かれて、まちづくりが進められたと言います。まず、まちづくりは江戸城の堀割から進められました。堀割とは、資材や蔵米を江戸湾から舟で直接運ぶための水路です。今でもその名残が残っています。堀割は、本丸を中心に螺旋状の「の」の字型になっています。東に大手門、南に西の丸、西に半蔵門、北に田安門、さらには常盤橋門、虎ノ門、赤坂門というように右回りに堀割が進められ、まちの骨格が決まり広がっていきました。この堀割に興味のある方は、是非一度この堀割に沿って探訪して見て下さい。当時のまちづくりの様子が見えるかも知れません。

そして、常盤橋門外から東の浅草方面に沿って、商人の居住地となった町割りが行われていきました。道幅を40尺(1尺=0.3㍍、約12㍍)、南北両端に幅奥行き400尺(約120㍍)ずつの町地を造成していったと言います。

この江戸城を中心にしたまちづくり事業が、全国の大名を統括するための一大事業でした。その後、江戸城下は諸国の大名たちを抱えた政治・経済・文化等の中心地となりました。つまり、江戸城下におけるまちづくりは、「天下普請」と呼ばれ、全国の大名たちに、厳しい「御手伝普請」が課されることになりました。特に、外様大名たちには、所領石高に応じて、所領千石につき、人夫10人の労役供出(幕府の要請により、人夫を提供すること)が命じられ、江戸のまちを造成するために集められました。このように江戸城を中心としたまちづくりは、徳川幕府における軍事的意味合いを多分に帯びたものでした。

ところが、この江戸のまちづくりも根本的に改造される出来事が起こりました。それが、「明暦の大火」1657年(明暦3年)でした。この大火により、江戸のまち約60%が消失するなど壊滅状態になり、このままでは再び江戸のまちは消滅するとの危機から、江戸のまちを構造的に見直すことを余儀なくされたと言うことです。その見直しは、次のようなことでした。

①「道路の拡幅」、②「防火の土手」、③「架橋」、④「埋め立て」、⑤「火除地」、⑥「大名・旗本の屋敷を郊外へ移転する」、⑦「寺社も郊外へ移転する」など、防災を重視したまちづくりへ再整備されることとなりました。この結果、江戸のまちは、18世紀以後、現代に至るまでの100万都市の石杖となりました。

さて、建設産業の歴史を紐解く旅は、江戸時代に行われた街道整備、航路整備、まちづくりがはじまりでした。先人の知恵は脈々と受け継がれていることがお分かり頂けたと思います。更なる建設産業の発展のために、我々がやらなければならないことは何なのか、是非今回の歴史の旅の続きを展望して下さい。

次回からは、建設業の働き方改革に繋がる一つとして、労働生産性について考えて見たいと思います。

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