建設産業の歴史を紐解く旅(4)

今回は、③「大名の権力を示したまちづくり」について、先人の足跡を探訪して見ましょう。まちづくりは江戸時代よりも少し前、織田信長が天下統一を図ろうとしていた言わば戦国時代、1577年(天正5年)安土城下に商人を中心としたまち「楽市楽座」をつくったのがはじまりと言われています。

中世の商工業者たちは、公家や社寺に対して商業税を納め、座商人に特権が与えられて商いができました。そのため、座に属さない新しい商人たちは、自由に商売ができなかったと言います。そこで、織田信長は、この「楽市楽座」といった以前のしくみを廃止し、安土城下に流通を集中させ、まちを繁栄させていったと言います。織田信長は、人々を集めることにより、自身の権力の下でまちをつくっていきました。これらの織田信長の政策が、諸国の大名にも伝えられ、各城下におけるまちづくりが進んでいったと言われています。

その後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年(慶長8年)に江戸幕府を開き、徳川の時代を築くためのまちづくりが始まりました。それまで、江戸城は、1457年(長禄1年)に上杉氏の家臣であった太田道灌が築城したもので、城下は荒廃し、まわりは湿地だらけで城と言っても石垣はなく、竹が生い茂る荒れ果てた状態だったと言います。

このような江戸のまちづくりを進めるに当たり、徳川家康のブレーンとして活躍したのが、天台僧の天海でした。陰陽道を修めた天海は、古代中国の陰陽五行説に基づく、「四神相応」つまり、江戸は東に平川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾という四神により、守られた土地と考えられていました。但し、江戸の北に富士山はなく、寧ろ西に近く、いくつかの説によれば、麹町台地のことではないかと言います。いずれにしても、四神相応(東に川、西に道、北に山、南に海)にこじつけた感は否めません。

又、江戸城が置かれた本丸台地を囲むように7つの台地(上野台地、本郷台地、小石川台地、牛込台地、麹町台地、麻布台地、白金台地)に囲まれ、陰陽道ではこうした地形の中心に、まわりの地の気が集まり、栄える場所とされたと言います。

次回も、引き続き江戸のまちづくりについてです。

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