建設産業の歴史を紐解く旅(3)

今回は、③「北前船の流通発達による航路及び寄港地の整備」について、先人の辿った足跡を探訪して見ましょう。江戸時代に入ると、征夷大将軍である徳川家康の天下統一により、食糧が安定して生産できるようになったため、各地で採れた作物を出荷するなど輸送への需要が高まりました。しかし、依然として陸路で運ぶため、その出荷量は限定されたものでした。

そこで幕府は、陸路で作物を運ぶより、安い費用で早く運ぶことのできる航路に目を付けたのです。幕府は、街道整備などにより人足が食べる米不足を解消するため、現在の東北地方である奥羽地方の幕領から、太平洋側を通り江戸まで米を移送するための東廻り航路を開拓しました。その開拓を担当したのが、「明暦の大火」で木曽の材木により大儲けした商人、海運土木業者の河村瑞賢でした。河村瑞賢は、幕府の普請事業にも関わり、一躍名前をはせ時の人となりました。

幕府は、1672年(寛文12年)になると、現在の山形県である出羽の幕僚から日本海側を通り、下関や大阪を経由し、江戸まで移送する西廻り航路も整備していきました。さらに、航路を開拓するに当たり、寄港地を決め船が係留できるように港も整備させました。船の中でも帆船による積み荷移送は、殆ど西廻り航路でした。それは、偏西風の影響で西廻り航路は、流されても岸に着きましたが、東廻り航路では沖に流されると、戻ってこれないという非常に危険を伴った航路だったからです。

西廻り航路を行き交う船を北前船(当時、積み荷を各地で売買する商船のこと)又は、買い積み船或いは北国船、弁財船とも言いました。この北前船は、元々北陸の加賀藩三代藩主、前田利常公により、寛永16年(1639年)加賀藩の蔵米を大阪に輸送するための船でした。当初、敦賀で船荷を陸揚げし、陸路と琵琶湖の水運を経て、大津や京都、大阪へと蔵米を運んでいましたが、荷の積み卸しや陸路輸送には大いに手間が掛っていたため、海路を経由して廻送したところ、この手間が省けたと言います。その後、幕府が河村瑞賢を使って、西廻り海路を開拓させたと言われています。

ところが、加賀藩三代藩主、前田利常公よりも早く、江戸時代の初めに、現在の北海道である蝦夷地と内地との交易を行っていた人々がいました。それが、現在の滋賀県に住む近江商人でした。近江の商人は、早くから近江国外に進出して商いを行っていました。この時、近江商人に雇われて船を操っていたのが、越前や加賀、能登、越中の船乗りでした。そのうちに、雇われ船主たちも自ら力をつけ、自前の船を持つようになりました。そこで、加賀藩の前田利常公は、この近江商人に目を付け、独自に航路を開拓したと言います。よく、近江商人の人々は次のような言葉を残し、現在の商いの手本となっています。

「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」、「始末してきばる」、「利真於勤(利は勤むるに於いて真なり)」、「陰徳善事」等々。これらの言葉は、近江商人の商売に対する思想や哲学などが刻まれています。

さて、北前船の流通発達による航路及び寄港地の整備は、現在も続き、地方の漁業のあり方を見直す時期にきているとも言えます。漁場の確保、資源の維持、水揚げした魚の空路輸送など卸業者や消費者にどうやって新鮮な魚を届けるか課題は山積しています。

次回は、③「大名の権力を示したまちづくり」についてです。

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