建設産業の歴史を紐解く旅(2)

今回は、①「人々の往き来ができる街道の整備」について、先人の辿った足跡を探訪してみましょう。

江戸時代に入り、徳川幕府は、江戸を起点とする陸上交通路の整備を幕府直轄の「五街道」(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)をはじめとして、「脇街道」又は「脇往還」として全国に拡げていきました。これらの整備の目的は、幕府と朝廷の関係を維持することや江戸の防衛と言われています。

特に、江戸と京都を結ぶ「東海道」は、将軍が住む江戸と天皇が住む京都を結ぶ主要幹線道であり、全国に散らばっている大名の参勤交代で通行する街道でもあったため、最も重要な街道整備でした。しかも、「五街道」には、幕府を守るための天領、親藩、譜代藩を配置し、人々が行き交う上で重要な場所には、関所や番所を置いて、軍事的・政治的にも配慮したと言われています。そして、この「五街道」の道路整備は、標準幅員を5間(1間=1.82㍍、5間=9.1㍍)両脇に木などを植えた並木敷を9尺(1尺=0.3㍍、9尺=2.7㍍)ずつ配置しました。つまり、全幅=14.5㍍の道路が整備されました。その道路には、砂利と砂を入れて路面整備は施されています。こうして江戸時代には、全国への街道が整備され、道中には宿場が置かれ、人々の往来によりそう宿場が栄えていきました。有名な「東海道五十三次」とは、江戸から京都までに五十三の宿があったことから、こう呼ばれました。

又、幕府直轄の「五街道」の整備は、幕府が行う土木工事「御普請」或いは、諸藩が人夫又は人夫賃などを提供して行う土木工事「御手伝普請」により、普請の主体である幕府が、諸藩の大名を動かし、大量の人足を動員させ、完成させたと言います。ちなみに、建築工事のことは、「作事(さくじ)」と言います。

まず、現地調査の上、目論見(工事計画の概要づくりや工事費の見積など)が行われました。引き続き、指図(設計図)が作成され、普請や作事に必要な人足数、資材の帳簿(数量拾い、内訳明細書など)も作成されました。そして、基準となる測量杭を打つなど段取りがはじまり、諸藩の大名は、帳簿に従い、人足や資材の調達に負われたと言います。

人足や資材の段取りができると、いよいよ普請や作事がはじまります。その際には、普請等の無事を祈って、地鎮の神事を執り行い、普請や作事に移っていきました。今でも工事の前には、起工式や地鎮祭などの神事が執り行われています。又、普請等は、丁場という分担場所が決められ、それぞれ普請小屋(飯場)ができました。人足は、飯場(はんば)で飯を食い、寝泊まりし、対価として銭や米などの報酬を得ていました。

このように、街道整備に端を発する普請や作事が、今の土木工事、建築工事の原型になったと言えます。次回は、②「北前船の流通発達による航路及び寄港地の整備」についてです。

最新記事

アーカイブ